待ち人

「ヤ────ッ」
 裂帛の気合が五稜郭に響き渡る。
 郭内の一角に設けられた道場では、二人の剣士が立ち合いの真っ最中だった。
 防具で身を固めた一方に対し、稽古着に胴を着けただけの軽装で竹刀を振り上げているのは、陸軍奉行並・土方歳三。
「うわあっ」
 土方の黒髪が舞い、竹刀が一閃したかと思うと、次の瞬間相手は悲鳴を上げて壁に叩き付けられていた。
「次っ」
 まなじりを吊り上げて土方が叫ぶ。居並ぶ新選組隊士の中から、また一人防具姿の隊士が歩み出て、及び腰で竹刀を構える。
「なんだあ、そのへっぴり腰はあっ!!」
 土方の喝が飛ぶ。
「顔洗って出直して来いっ!!」
 上段から撃ち下ろされた竹刀を面に食らって、この隊士も呆気なく昏倒。
「次ーっ」
 土方が吼える。秀麗な細面が朱に染まって、鬼気迫るものがある。もう誰も前に出たがらない。
「タロさん、土方くんはどうしたんだろうね」
 怖い物見たさで道場を覗きに来た榎本が、戸口から中を窺いながら首をかしげた。
「しっ。危ないですよ、榎本さん。目を合わせたら噛み付かれますよ」
 松平が声を潜めて榎本の袖を引っ張る。
「やっぱりあれじゃないですか。大鳥さんの帰りが遅れてるから……」
「えー、でも、昨日まではもうすぐ帰ってくるって嬉しそうにしてたじゃない」
「そうですよ。大鳥さんが江差に出張してから土方さん元気がなかったけど、ここ数日は明るかったですもんね」
 いつの間にか後ろに来ていた荒井が話に加わる。
「それがですね、実は……」
 松平が顔を曇らせて言う。
「大鳥さんはもう昨日こっちに着いているらしいんです」
「ええ?」
 榎本と荒井が同時に声を上げる。
「どうも湯の川に一泊して温泉に入っているらしいんですよ」
「温泉!?」
「しーっ!! 聞こえたらどうするんですか」
 松平が慌てて二人を制する。榎本が小声で続ける。
「まずいよ、それ。いや、僕は構わないけどさ。土方くんは、それ知ってるの?」
「ええ、多分。新選組の探索方は鼻が利きますからね」
「うわー。それであんなに荒れてるんだー」
「待たせて温泉はまずいよなー」
 戸口にしゃがみ込んでひそひそ話している三人の背後に、ゆらりと人影が立った。
「温泉がどうかしましたか?」
「ひっ……」
 土方である。殺気に近い気配を感じて、三人は腰を抜かしかけながら後ずさる。
「ちょうど良かった。手応えのない連中ばかりで閉口していたところです。ひとつお手合わせ願えませんか?」
 三人を見下ろして、土方がうっすらと微笑む。はっきり言って怖い。
「い、いや、僕はまだ仕事が残っているから……」
「そ、そうでした。僕もこれから会計と打ち合わせが……」
「私も甲賀くんと約束が……」
 三人とも目を逸らしてそそくさと逃げ出そうとする。
 その時。
「何してるんだ? 皆で道場に集まって」
 廊下の先から呑気な声がした。
「お、大鳥くん」
「あ、釜さん、ただいまー。さっき部屋に行ったら、皆こっちだって言うから……」
 一か月半ぶりに五稜郭に帰ってきた陸軍奉行は、長旅の疲れを全く感じさせない軽快な足取りでこちらに向かってくる。まずい、と三人は凍り付く。
「大鳥くん、逃げろっ」
 とっさに榎本が叫んだ。
「駄目ですよ、榎本さんっ。大鳥さんが逃げたら、土方さんの矛先が我々にっ」
 松平が叫んで榎本を止める。
「あっ、そうか」
「何の話だ、一体? あ、土方」
 怪訝そうに近付いてきた大鳥は、道場の戸口に立っている土方を見つけて、無邪気に顔をほころばせた。
 ぎらり、と土方の目が光る。火を噴くような視線を大鳥に向けた次の瞬間、土方の体は床を蹴って跳躍していた。
「この温泉奉行が───っ!!」
 叫ぶなり、頭上に振りかざした竹刀を大鳥目がけて振り下ろす。
「きゃーっ!!」
 榎本と松平と荒井が悲鳴を上げる。
 元新選組副長の必殺の一撃をまともに受けてその場に倒れ伏すかと思われた大鳥は、大方の予想を裏切って敏捷に身を翻して床に転がり、辛くも竹刀から逃れた。だが、起き上がる前に土方の第二撃が繰り出される。
 喉元を狙っての凄絶な突きである。榎本たちは思わず目を閉じる。
「…………」
 大鳥の喉を突くほんの一寸手前で、土方の竹刀の先はぴたりと止まっていた。
「……ただいま、土方」
 仰向けにひっくり返ったまま土方を見上げ、何事もなかったかのように大鳥は笑みを浮かべた。
「……遅いっ」
 肩で息をしながら、絞り出すように土方が言う。
「昨日こっちに着いて、今まで何をしていた」
「ああ、湯の川に寄ったのを怒ってるのか」
 大鳥は合点が行ったという顔をする。
「だって久し振りに会えるっていうのに、旅疲れなんかしていられないだろ。だから温泉でちょっと休んで行こうと思ったんだよ」
「……そうなのか?」
 竹刀を突き付けながら、土方の口調が少し弱まる。
「そう。ああ、お前、少し髪が伸びたな。前髪が……」
 目を細めて、大鳥は右手を伸ばす。土方はその手を振り払って立ち上がり、乱れた前髪を苛立たしげに掻き揚げた。大鳥は気にする様子もなく、体を起こして服を払う。
「土産があるんだ。後で部屋に行くから」
「来るな、馬鹿野郎」
 そっぽを向いて土方が言い捨てる。
「江差の鰊と昆布なんだけど、いらない?」
「いらねえ」
「鰊蕎麦にすると旨いぞ」
「ひとりで食ってろ」
「じゃあ、後でな」
 大鳥は気にしない。
「来るなって言ってるんだ」
 頬を染めて土方が語気を荒くする。
「うん」
 大鳥は笑ってうなずく。
「おい、分かってるのか?」
「分かった分かった。お前がそう言うなら」
 大鳥は立ち上がって、宥めるように土方の目を覗き込んだ。
「部屋には行かない。鰊蕎麦も一緒に食わない。これでいいか?」
 顔を寄せて囁き声で続ける。
「会いたかったなんて言わないし、髪にも触らない。頬にも触れないし、手も握らない。それから……もっと言おうか?」
「……馬鹿野郎」
 耳朶まで真っ赤に染めた土方は、言葉とは裏腹なまなざしを一瞬大鳥に向け、目を伏せた。



「フタリシズカ」様でお二人の出会いの年、1868番踏ませていただいて、書いていただいちゃいました〜!!
なんて、格好のよいミスター・オートリ。私めの理想、のような♪
それから、仲の良い五稜郭の皆さんや、ラストの甘さ〜!!
卯の花さま、ほんとうに有り難うございました!!