cloudy

天気は斜め気分も斜め :

 金曜日の午前。
 入梅前の気温だけがやけに上がって、風があって、でも半分曇り空で。
 布団を干していても、いつ雨が降るかと、開けた窓越しに何度も空を見る。
 垣間見える青空。
 アパートの窓に備え付けの柵に、二人分の汗で湿った布団を干した。あと三十分したら、裏返さなきゃ。雨が降る前に、手っ取り早くふかふかに乾かしたい。
 昨晩の名残が嫌なわけではないけれど。
 なんとなく、こうしてお互いの、相手の匂いをそのままここに留まらせるのは違う気がして、いつでも布団はまっさらに戻したい。そうして俺達の中を、俺は白紙に戻しているのかもしれない。
 先日電気カーペットから敷き替えた、伊草のラグにごろりと腹ばいに寝そべって先週土曜の早売りジャンプを手に取る。
 暖かく強い風が、びゅうと俺の部屋を抜けて行く。
 背中でTシャツがべろりとめくれた。
 
 開け放った玄関から、コンクリートを擦る靴底の音。
 次いで物の入ったビニル袋がガサリと揺れる音。
 それがうちの前で止まる。
「ただいま」
 見なくても、朗らかな声音に、思わず笑顔になる。
「おかえりー」
 仰向けに膝を立て、ジャンプを頭上に掲げた格好のまま顔だけ向けて言ったオレ。
 にこりと笑って、きっとまたさり気なくバカ丁寧に靴を脱ぎ揃えて伊庭の若旦那は、俺がごろ寝している部屋(と言ってもこの家には小さなキッチンとこのひと部屋とバス、トイレしかない)の座卓に提げたビニルを置く。ペットボトルがごとりと音を立てる。
「昼は焼き蕎麦でいいかえ」
「うん。食べられればなんでもー」
 伊庭が来ると、食事が楽だ。何でも作ってくれるから。俺はこうして布団を干して部屋の掃除をしてマンガ読んでいれば食事が出て来ると言う仕組み。週に一度の楽しみでもある。
「なんだい、複雑な言われようだねェ…」
 苦笑した伊庭はそれでもさくさくと袋からお菓子とペットボトルを取り出して、残りの食材提げてキッチンに向った。
「醤油味なんて珍しいだろ、焼き蕎麦。野菜は昨日のサラダ入れちまうけど、いいさね」
 伊庭がこの部屋に泊まるようになってまず手入れされたのがキッチンだった。そして一番初めに持ってきたのがフライパン。7cmくらいの深さのあるそれで、伊庭はなんでも作ってしまう。炒めものから揚げ物、煮物。一人暮しには便利だからと、彼は置いて行ったけれど、俺も「へえ」なんて肯きながら、専ら使うのは彼のみだった。
 
 ザッザ、と向こうからする油の音と匂いに胃を刺激されて、流し見ていたマンガから目を上げ窓を覗く。
 鈍く曇り始めた空。心なしか、湿り気を帯びた風の匂い。
(布団、入れなきゃ)
 引っ繰り返すのを忘れてしまった。
 けれど、もうすぐ泣き始めそうな空に、それ以上は諦めて、布団を両腕でぎゅうと抱え込んで持ち上げた。
 不意にかすめた彼の香り。
 昨晩を思い出しかけて、固まる。
(や、べ)
 
「総さん、どうした?」
 気付けばいつの間に調理の音は消えて、座卓の上でフライパンから皿に蕎麦を盛っている気配を感じた。
 誤魔化すように布団に顔をこすり付ければ逆効果で、思わず前のめりになったのを悟られないよう叫び返す。
「なんでもない!」
 勢いよく振り返って、危うく盛ったばかりの焼き蕎麦を布団で引っ繰り返しそうになって伊庭が眉を下げた。
「あぶねェなあ、総さん」
「あーごめんごめん。俺ちょっとトイレ」
 伊庭が事情を察したか察してないか、俺は知らない。知っても仕方がない。
 乱暴に布団を投げ捨て、顔を見ないまま大股にすれ違う。
 鼻を掠めた醤油の香ばしい香りにぐうとおなかが鳴って、早く、と己に思った。
 駆け込んだトイレの前を人が通る気配がして、握った右手はそのまま、息を詰める。
 玄関の扉がガシャンと締まった。
 隙間風の音が止む。
(ああ、なにやってんだ、オレ)
 落ち込んで、左手で壁を掻く。

 


もやもや :

 木曜日の夜。
 
 挿れるのはナシ、と初めに約束した。
 口も手もありだけど、挿れたいのはひとりだけ。あの、俺たちのきれいなかわいいひと。
 ヤってる最中はよくわからなくなってしまうけど、素股くらいなら、するけど。
 挿れたくなってそこに指を添えることも、添えられてぞくりとすることもある。
 でもお互いを見失って、行為に意味が生まれるのが怖かった。
 けど、なんだろう。
 近頃、すっきりしない。抜けばそのときは、すっきりするけど、それとは違う。
 最中の相手の目を見たら、何か答えがわかるかとも思うけど、熱を持ったそれをじっとは見られない。
 直接聞いてみればいいだろうけど、聞いたらおしまいという気もする。
「……――し、さンッ、―――き、…!」
 イクときに微かに上がったその声に、どきりと心臓がなった。
 おれも、好き。



このぐらいが丁度良い :

 金曜日の午後。
「総さん、最近、何か気になることでもあるのかえ」
 伊庭が一歩後ろから声をかける。雨音に、普段よりは大きな声。
 駅までの道、伊庭を送りがてら総司は散歩。
 降り出した雨に、一本ずつ傘をさして歩く。
 濡れたアスファルトに雨粒が弾け、弱くない雨が水の流れを作る。総司の履き潰したスニーカーは雨でよれよれになり、伊庭の安くない革靴は防水で雫になった水滴が次から次へ垂れた。
 あたたかな雨は、風に吹かれて、時折、二人を横から濡らした。
「あー…うん、まあまあ」
 総司は曖昧に肯く。ふたりの上の街路樹から、溜まった雫が大粒で落ちた。ばたばたばたと、傘が大きな音を立てる。
 切っ掛けを外して、伊庭は口を噤んだ。
 そろそろ駅舎が見える。電車の走行音。細い路地ばかりの土地。いくつも並ぶ昔ながらの小さな商店は夕方にはいつでも賑わっている。雨でも、晴れでも。
 一本、横道に入れば、住宅が続いて人通りは減る。傘に隠れて、伊庭と総司は唇を合わせた。
 目が合ったから。
「…なんだろうね、俺たちの、この関係」
 身長は総司のほうが高い。伊庭は成人男性の平均か、それより少し低いくらいだろうか。総司はそんな伊庭がやや見上げるほどの高さ。こぶし一つ分ほど大きい。件の歳三と、伊庭が近い体型で、甘いものが好物な分、若干伊庭の体重が歳三よりも多いくらい。
 伊庭の、万人に好まれる容の良い瞳をじいと見つめて、総司はそこに映る己を見つけた。
 大きななりをして迷子のように途方に暮れた顔をする総司の頬を、伊庭は白い手でそっと撫でた。
「やめに、するかい。…実は、おいらも迷ってた」
 予想がなかったわけではないのに、実際相手の口から聞かされて、それに少なからず動揺してしまった己に、総司は驚く。
 抱き合って、そろそろ一年とはいかないものの、それに近い月日が経った。
「ころあい、なのかねェ…」
 想いを遂げたい人とは別に、この相手へ別の想いが生まれてしまって、実は離し難い。
「どうしよう」
「うん…」
「どうしよう…!」
「総さん」
 傘の持ち手と逆の空いた手で前髪をぐしゃりと掴んで、総司はらしくなく躊躇する。
 迷うべくもない。
 元のところに、戻るだけ。
「もう二十一だよ、おいらたち」
 けれど、知らなかった頃のふたりには戻れない。
 優しい雨が、全てを洗い流せばいいのに。

 


気怠い午後 :

 これで、最後。
 そう、口約束。
 そうして僕らは、木曜日の夜、抱き合った。
 
 なんだか感極まって、泣けた。
 最後だから、と、…。
 お互いに最後の一線を越えるのを、ゆるした。
 その場の情に流されて、まず若旦那が俺を受け入れて、それから俺が若旦那を。
 手探りで、頼るべくは互いのみ。初めては、窮屈で挿れる方も挿れられる方も大層痛くて生理的な涙が流れた。上手くない二人は、ただ精一杯、思いつく限りでそこをほぐして、感じる努力をした。
 痛みも、熱も、二人はひとつになって、満たされないものを貪った。
 そうして得たのは…―――。
 
 だらだらと朝食も摂らず、昼の番組が始まってもふたりで何かを惜しむように煎餅布団に転がったまま。手を繋ぎ合ったまま。
 身じろぎせず、気怠い金曜日の午後の過ぎるのを、息を潜めじっと待った。

 


ためいき零れて :

 知らず、ため息がこぼれる。
 伊庭は当て所なく曇り空の下を、一人、身ひとつで歩いた。ジーンズの左右の尻ポケットに親指を一本ずつ引っ掛けて、ずるずると、らしくなく靴底を擦るようにだらしなく歩いた。
 視線は、臙脂のアスファルトを這うように落ちる。
 何故これほど浮かない気分なのか、考えてしまっては尚更憂鬱になる予感がして、ただただぼんやりとした。
(ああ、降りそう)
 泣き出しそうな空をのたりと見上げて、また視線を落とす。
 風がほんのり冷えて、雨の匂いがする。冷たい雨が降るだろう。
(おいらだって泣きたい)
 年上のきれいなあのひとに、縋りたい。
 縋って泣いて、打ち明けたい、何もかも。
 
 ほんとは、おいら、
 
(…`ホントウ´…?)
 伊庭はぎくりと足を止めて、誰も見咎めやしないというのに、視線をさ迷わせる。信じられない思いで、左に作った拳で口元を押さえた。
 ぽつりと、高い頬骨に初めの一粒が落ちる。
 気付けば空はすっかり黒く、分厚い雲に覆われ、昼間だというのに照度に応じた街灯が灯る。
 ばたばたと街路樹の葉を打ち付けて大粒が降り始めても、伊庭は呆然とそこに立ち尽くしていた。

 


どうして君なんだろう :

 いつから。
 いつからあのひとではなくなったのだろう。
 僕らの心に棲んでいたはずの、綺麗なひと。
 そのひとを大事に仕舞っていたはずのそこに、いつから君がいたのだろう。
 君はとても生き生きと輝いて、そこに居た。
 生身の温度をもって、僕の隣に。
 儚い幻のようなあのひとではなく、汗ばむような近さで君がいた。
 本当の恋は、いつから始まっていたのだろう。
 どうして君なんだろう。
 
 胸が苦しくて僕は、ぎゅう、と君の手を握る。

 




「きりんのあくび」様で、またもリクさせて書いていただいたお話です!!
わたしめの理想とも思える伊庭沖伊庭〜!!! 素晴らしすぎます☆
あゆさん、ほんとう有難うございました**


お題提供/路(ミチ)様