明けノ原



1.現実と真実
 現実は私達に酷く厳しい。
 浪士組と呼ばれた私達を、始め、京の街は怖れと侮蔑で迎え入れた。しかし針のむしろであったそれも、新選組と名を変える頃には壬生では徐々に受け入れられ、身近なところから優しく変化していった。
 ところが、状況は一変する。
 今、私達は真綿で首を絞められるように、ゆるやかに確実に逆境へと追い詰められている。
 一寸先は闇。
 己が意思で、江戸からこの道を歩んで来たはずの我ら。
 しかし、全てがあの頃から御膳立てされたかのように上手く行き過ぎていて、この状況下、思い起こせば舌の上には気味の悪さが残っていた。
 その現実と真実の奏でる不協和に肌が泡立つ。
 内部での粛清、薩長の蠢く気配。華々しく見えた新選組の先行きも、内実真っ暗。
 そして私のやまい。
 大事な場で血を吐いた私。
 腫れ物のようには扱うまいと気遣う周囲の心遣いに、私もいつか疲れてしまった…。
 離れで一人でいるのは淋しい。
 夜泣きすることもある。
 けれど気遣う相手のいないことに、安堵するのも正直なところで。
 試衛館のころのように、兄と慕ったひとたちだけが私を訪れ安らぎをもたらし、馬鹿騒ぎできる一番隊の年近い部下ら数人、ほんとうに気の置けないのだけが私を見舞う。
 それだけで私の一日、一日が、完結していく。
 私は一人。
 多くの時間、夢と現のはざまで私は過ごす。 
 胡乱なその目に刹那、小さな焔の蘇ることがある。
 弱り細った貧相な胸に沸き上がる、そのまなざし…。
 
――宗さん、
 
 私の身体の芯の、苦しげに軋む音が傍へも聞こえてしまいそうで困る。
 たれも居らぬ室を、ぐるり見渡した。
 まあるく切り取られた明り取りの向こうに、寒々しく小雨が強い風に舞っている。
 まるで白い雨が、風を模して吹く。
 
――そら、宗さん、きれえだねェ。
 
 まるまると開き満開の桜を、育ちのよいすべすべの手の甲で撫ぜて微笑みを寄越すその姿。
 思い浮かべるだけで、こんなにも温かい。寒々しいこの夜に、唯一の温もり。
(会いたい…)
 いま一度。
 私はあなたに会いたいのだ。
 小さくなった命の灯火にさえ私は縋り、有無も量れぬ再会を生き汚く祈り縋る事しかできぬというのに。
 あなたに恋焦がれる、ただのひとりの男なのです。
 純粋な恋心が、温かく命の焔となって胸に灯る。
  
 
 
2.狂気に身を委ねる
 こんなのは可笑しい。
 冷静に考えれば、世の流れに身を委ね行く末を見据えるべきでありましょう。そうして代々継がれた剣の道を守り血を繋ぐべきでありましょう。
 しかし、心が泣くのです。
 許すまじと心は震え、身体は時流に逆らい翻弄され、それでも我が身は止まる事を許さぬのです。
 死ぬことは容易い。生きるはこれほどに難い。
 この戦いの中で、きっとあなたも私もなくなるのでしょう。
 会いたい者に会うというそれだけのことが、こんなにも困難なことだと私は初めて知りました。
 いっときの熱に駆られ、命を捨てようとしたこともありました。
 しかし友に、同志に励まされ、あなたのお仲間がまだ戦っていると知り、私は身を粉にし例い一部を削っていてもあなたにもう一目会いたいと、山を海を越えました。
 人とはそうして在れるものらしいのです。
 知り得たのは、なんとも重畳なことでした。
 そしてついに、もう側まで居るのですね。
 逸る思いをどうにか抑え、私は機の熟すのを窺っています。
 風の噂であなたの居るらしい場所を知りました。
 こうして私の耳に入ってしまったことにすら不安を憶えないと言ったら嘘になりますが、今はそれを朗報と喜びましょう。
 私はあなたに会う。
 何を賭しても、江戸で別れ京ですれ違ったまま、私は北へ向う船に乗れはしないのだから。
 
 
 
3.裏切りの代価
 あのひとに、これを…
 
 落ち合い場所に鎌吉が持参したのは数十両という大金だった。
 その金を無心した伊庭は、後味の悪さと後ろめたさが胸に広がるのを俯いて耐えた。
 眉根を寄せる伊庭に、鎌吉が声をかける。
「おいらんが、言っておりました。先生に…お会い出来ることを、お祈り申し上げます、とお伝えしてくれと」
 鎌吉にはなんのことか、わからぬのであろう。
 小稲が伊庭に会いたいと願っているとでも解釈したかもしれない。
「うん」
 伊庭はただ肯いた。
 淡い想いを寄せた相手が京に上ってしまってからの虚しい日々、それを慰めたのが小稲であった。
 女のあたたかさと強さに包まれ守られ、伊庭は抜け殻にならずに済んだ。
 御上のお供で京に上った際も、いってらっしゃいまし、とそう言えばあのときも同じことを祈ってくれたものだと思い返す。
 結局はすれ違い会えず終いであったが、そのあともよく慰め、何かと世話を焼いてくれた。
 さながら母が赤子を愛しむように。
 
 感謝してもし足りない。よくぞ、ここまで尽してくれた…。
 
 落籍してめおとになってやればどれだけ幸せに出来た事だろう。
 しかしそれでは伊庭が幸福にはなれぬ、と小稲は首を振る。どこまでも伊庭を思った女であった。
(おまえの分も、おいらはこの想いを貫く)
 女を一人、不幸にしても、踏み台にしても。
 
 
 
4.少女が歌いし鎮魂歌
 雨の降る日で良かった…。
 総司はだるく重い頭を持ち上げ、しとしとと庭の枝を揺らす秋雨を見詰めた。
「こんな寒い日に、…今日だけですよ」
 外へ出たいと言う病人の我侭を、小言をいくつもこぼしながら植木屋は聞き入れた。
 何から何まで総司の身繕いをしてやって(綿入れを重ね過ぎて動けなくなったのには総司も閉口した。)、最後に傘を持たせてやった総司の手を職人の硬い両手のひらで包み込んで、いってらっしゃいませ、お早く戻るのですよと目尻の皺を深くした。
 
 本心では居ても立っても居られぬであろう。
 ここまで慎重に匿って来た命だ。こんな勝手な我侭で簡単に落とされては堪るまい。
 しかしこの家に来て、総司が真剣に願い出たのはこれが初めてのことだった。
 幾日前に病人宛てに文が来て、それを大事そうに日がな一日眺める姿を見た。
 そして夕餉の膳を揃えていたとき、打ち明けられたのだ。
『会いたいひとが、来るのです』
 
 今日は全ての命が静かに息を潜め、目を伏していますように。
 木塀の向こうから少女が唄の稽古する声が届く。
 なんの代わり映えもないつまらない一日だった、と明日の朝にはきっとけろりと忘れているだろう。
 植木屋はいつものように、変哲のない冬の一日を過ごす。
 
 
 
5.親友の定義
 遥か遠く果てしない花畑に広がる様々な花に負けずに咲く。
 青く青い空、内から光るような白い雲、潔いほど鮮やかに黄の菜の花、それを支える太い茎の緑。
 生温い風が吹けば、毛氈のように一斉にゆるくそよぎ揺れる。風の通り道を象る海原のように。
 
 総司は目映くて目を細めた。
 向こうで、若い師とその幼馴染みの男が戯れあって、つかず離れず距離を保っている。いくらか引いてその様子を眺めた。
 色白の歳三の腕を取って、勇は日除けの傘を差し掛ける。
――女扱いするな勝っちゃん、
 こちらまで届く声で歳三がそれを突っぱねたが、勇は右から左で強引に歳三の薄い肩を抱き込んで二人、日傘の下に収まってしまった。
 勇は歳三が大病患って以来何かと過保護で、あれこれと世話を焼きたがるようになった。独占欲丸出しで誇示しているようでもあった。
 腕を引っ張り、突っ張り合う二人のその様子を見て、なぜだか急に鼻の奥がつんとして総司は切なくなった。
 いつかはこの関係にも終わりが来るのかもしれない、この美しい景色を刹那も留めることができないのだから。
 眉間に力を込め、このときを忘れまいと目を見開き己の脳裏に焼き付けた。
 やがて静かに寄り添った歳三の肩を、いつか勇がさらに抱き寄せてその黒羽鴉の髪に唇を寄せたように見えた夕暮れ…。
 今でも総司は鮮明に、不思議に思い出す。
 妻を娶り子まで成し、妾をいくつも囲った兄のような師と、あの風来坊の歳三との間にあったその情愛のなまえ。
 
 総司はまた同じ空を夢に思い出し、涙して目覚めた、病の床。
 
 
 
6.立場逆転
「旅の方ですか」
 甘味やで笠も取らず急く様に茶をすする旅装の男。中肉中背、特段目立つようなところもなく、ただ被ったままの笠に片手を掛け押さえるようにしたまま俯いて団子を頬張った。
 その地味な男に声をかける痩身の男。酷く痩せ細って病的ですらあり、顔色はそれを裏切らず殊更青白い。看板娘が、痩せ男へ気遣わしげな視線を寄越すのに弱く笑ってみせた。
 笠男がふと視線を上げ、目だけで問いに是と返す。
 ご相席、よろしいか。
 答えを待たず、痩せ男は向いの席に図々しく腰を下ろしてしまった。
「どちらへゆかれるんです、この物騒なご時世」
 変わらず無邪気に話し掛ける痩せ男に懲りたように笠男が笑って肩を揺らした。
「…さて」
 相変わらず目深な笠の下にその表情は隠れたままだが、唐突に現れた珍客に対し明かに声が笑っている。痩せ男は面白がって重ねて話しかけた。
「ここで出会ったのも何かのご縁です。ここは私が持ちますよ、旅のかた」
「それは」
「いえいえご遠慮なさらず。お姉さん、私にはお汁粉をお願いします」
 さすがに驚いた笠男が何か言う前に、痩せ男はこの座に腰を据えることに決めたようだ。
「甘いものがお好きなのですか」
「ええ、好きだったひとがよく食べさせてくれました」
 そこまで話すと、痩せ男の前に薄い汁粉と熱い茶が運ばれた。嬉しそうに両手で紅い器を持ち上げまず甘い汁をひと舐めする。ああ美味い、自然に零れたせりふに笠男の口端も綻ぶ。
「お好きなのですね」
「ええ、好きなのです」
「わたしも、好きです」
「…はい」
 まるで暗号のようなその会話に、誰も気付かない。
 二人には、わかっていたのだから、それで良かった。
 しばし沈黙が訪れ、ふたりは静かにわずかな刻を惜しむように甘味を噛み締め味わった。
 
「…そうだ、これをあなたに」
 唐突に差し出されたかのようなそれ。
「御守り…」
 痩せ男は何かを思い出すかのように目を細め、それでも笑って右手のひらに紺色の守り袋をのせて見せた。細かく銀糸で何かの花の刺繍が施されている。
「ええ、大事なひとに差し上げるつもりだったのですが、渡す機を逸してしまって。せっかくですからこのご縁にもらってやってください」
「よろしいのですか」
「ぜひ」
「では、有り難く」
 今度は私が送り出す番になってしまった。
 懐で温もった御守りを手渡しながら、そう心で痩せ男は呟く。渡すその手で笠男の手を強く握れば、笠男もまるで格別を戴くように力強く返した。受け取った片手で器用に懐へ仕舞う。
「…では、そろそろ私は往きますので」
 がたりと席を鳴らして笠男が立ち上がった。
「そうですか、…道中ご無事で」
「そちらもお元気で」
「はい、お元気で」
 ご無事で、どうかご無事で。
 零れ落ちそうな涙を必死で堪えて、痩せ男は笑顔で見送る。
 笠男も見忘れまいとするようにじいと見詰める風であったが、名残惜しげにひとつ会釈した、それだけだった。
 
 あとは一度も降り返らず、店の暖簾をくぐって出て行ってしまう。立ち上がり追い掛けたい衝動を堪えるのに、膝がぶるぶる震えた。腹の肉がぴりりと攣れる。膝上に置いた白い拳に、青く血管が浮き上がる。
 せめてその、店先まで。暖簾の一歩先までなら。そう思うが、立ち上がってしまえば血を吐き倒れるまで追ってしまいそうで、怖い。ただひたすら堪えた。
 今生の別れなのだ。
 漠然と、わかった。
(さようなら)
 さようなら、愛しい人。
 
 
 
7.栄光はその手に
 遠く汽笛が鳴った気がした。
 あれから帰って、また寝込む日々。
 少しの遠出も総司には命を削るようなもの。
 乾いた空気のひび割れるような感覚に目が冷めて、瞬きせず天井の向こうを貫かんばかりにじいっと、持てる全神経で外の、遠くの聞こえるはずもない出航の気配を探った。
 
 私が次に目覚めなくなったとき、きっとあなたのその手にあるでしょう。
 輝かしい日々と、万人の羨む栄光。
 西はもうだめですから、きっとあなたは北へ向うのでしょう。
 春の花々があなたを祝福するために、あなたに遅れて北上する。
 それに私は心を乗せましょう。
 花びらの開くのに託して、私は虫になり、花から花へ伝いながらあなたを追います。
 あなたの失った腕の、癒えない傷から今も血が流れているような気がするのです。
 その匂いを辿って、あなたまで辿り着きましょう。
 襤褸の身体を捨てて、心だけの身軽になって。
 あなたの瑞光という陽射しをたっぷり浴びた花のもとへ。
 

「きりんのあくび」様のあゆさんに、しっとり、と心にせまるお話を書いていただきました。
せつない中にも柔らかい情感が、すばらしいです!! 
あゆさん、リクこたえてくださってありがとうございました**

気軽に7のお題 さま