つまるところ、ふたりはいつもすれ違う。
八郎は、武士の子だった。
金のある武家の、部屋住みだがいちおうは嫡男であった。
一方、歳三は、百姓の子であった。
豪農ではあるが、いちばんめの子でもなく、何事も長続きのしない性質であった。
「八郎さんは、いいひとね」
歳三の姉ののぶが、ひなたの畳で寝転がる弟のあたまの横に膝を寄せて、含みのあるようなないような口調でいう。
「あんたみたいな、取り柄は顔と身体だけの年増と飽きずにお付き合いくださってね」
「…なんだそりゃ」
さしもの歳三も、未だ世話になっている育ての姉にはささやかに突っかかるのが精一杯。強く言い返そうものなら、こちらが泣いて喚いてやめてくれと言うまで(言っても)応酬は続く。
のぶは自分で淹れた茶をすすり、揃えた膝の上の湯呑みでぬくもりながら伏し目で弟の脳天を見つめた。
「あなたはそうしていていいの?」
ひなたに、ぽつりと落ちたつぶやきに、歳三は身体を固くする。
姉の問いからだいぶん間のあったあと、両方の腕で頭を抱えるように己の表情を隠し、不明瞭に弟がこぼす。
「わからねえ」
辛気臭いいらえにのぶは歳三のひたいを平手で張ることで応えた。軽い、良い音がした。
「あら、なにも入っていないのかしら、この木偶の某の中身ったら!」
ぐうと唸り悔しげに見上げるいつまでも可愛い弟に満足して、音もなく立ち上がる。
「することがないのだったら、手伝いくらいしなさい! 若くて立派な身体のあるうちはきりきり働いてもらわなくっちゃ」
いいわね、歳三。有無を言わせぬ調子で押し切り、すす、と場を後にした。
取り残された歳三は、半身起き上がりじいと両手を見つめる。
陽にあたり常より白く見える手のひら。
この手にできることなど…。
八郎は指定された通り、いや、刻限よりも気持ち早くその襖を引いた。
待ち切れぬ。
愛しい恋人から、来いと言われれば気も逸る。当然だ。来いと言われずとも行きそうな自分を抑えるのに精一杯なのだから。こいびとが九つも年上であんなにきれいで恥かしがりな男前でなければ、きっとどこまでもついて行って手を離さなかったと八郎は常々思っている。
(どんなあんたもかわいいよ)
開けた襖戸の向こうに、早々くたびれたようすの白いうなじ。
(ほらね)
戸の開いた気配に驚いて、歳三はびくりと肩を揺らして八郎を凝視する。
「…おめぇかよ! びびった…」
八郎にはその瞳が、まるで甘く煮た丹波の黒豆のように見え、舐めたい衝動に駆られる。
八郎が約束よりも気持ち早めに着くのはいつものことで、歳三がそれよりもさらに早く来ているのもいつものこと。
わかり切ったことに声を立てる。
「早ェな」
毎度のことなのに、歳三は心底嬉しげに頬を紅潮させ相好を崩す。
いつまでも初めてのように初々しい歳三が、八郎は眩しくてたまらない。まるでおぼこのような顔をする。なにもかも初めてですというような、採れたての果実のように瑞々しいそのひと。いつ会ってもまるで初恋のよう。
そして少し不安になる。
いちばん最後の逢瀬すら、忘れてはいまいかと。
伝えた想いや、契りや、熱や。
自分は何一つ忘れていやしないというのに、この人は忘れてしまったのだろうかと不安になる。
手を握れば恥かしがって引くそぶり。
頬を寄せれば伏し目で笑む。
だから八郎は、またはじめからやり直す。何度でも、何度でも繰り返す。
好きだ、好きだと、繰り返す。
相手が初めてのように労わり、優しく口吸いから始める。
怖がらないよう、ゆっくりと高めてやって、それはもう自分はいいのだと始めは腹を括って。
一からやり直す。
けれど心地好さを憶えている若い身体はそれで満足するものでもなく、疼く。美しく整った指を男のくちに突っ込んでしゃぶらせ湿らせ、その指でうしろを探る。満更でもなく上がった男の顎の裏をひと舐めして、指を三本まで順に増やしてじゅうぶんにほぐれたところで指を抜いて、代わりを全て埋めこむ。
自分の、何もかも全て、忘れられないよう全て。
「すき…」
惚けて言葉がのどをつく。熱い息が漏れる。
どちらが抱かれているのやら、わからない。
「おめえは、…遊びじゃねぇんだ」
すっかり刺々しくなった恋人は、弛めた眉間に皺のあとを残して困惑したように眉を下げる。
上洛の、合間合間に会おうと文を寄越す八郎に、歳三はすげなく断りを入れ続けた。埒が明かぬと痺れを切らした八郎は、ついに屯所と言わず副長執務室に直々押し掛けた。
いくら穏やかな自分でも、これだけ避けられていれば怒りたくもなるし経込みもする。さてどのようにこの苦吟を聴かせてやろうかと飛び込んだ。
しかしてそこにあったのは、細くなった背。青白い肌。らしくなく餓えたまなこ。
もとからこんな男であっただろうか。
あっさり毒気を抜かれてしまった八郎は、やはり不安に襲われる。
「遊びじゃなくても会いたかったんだよ、おいら」
そっと歳三の冷たい肌に手を伸ばす。血の気が、欲しい。そう思って、八郎は両手のひらで歳三の左手を包み込んでごしごしと擦る。一向あたたまる気配はなく、荒れたような肌に哀れが募った。
根を詰め過ぎなのではないかと、聞くまでもないことをぽろりと八郎は口にする。新選組の副長だ、詰めぬ訳にはいかぬだろう。詮無いことと笑われる。
笑ったその頬が引き攣ったように見え、不自然なかたちに八郎は戸惑った。鬼と呼ばれるひとを前にして、どうにか人に還してやりたいと願う。
「ねえ、歳さん。一度だけ」
ふと口をつぐんだ歳三の瞳が無垢を帯び、それを見つめ返す自分の姿がそこに映るのを八郎は見た。
「一度だけでいい、今日、抱かせて」
主人に請い縋るように願い出た八郎を、突っぱねるでもなく歳三は静かに見つめる。
嬌声のひとつも上げてみせればお互い素直になれることはわかっている。
あの頃は九つ年上ということに拘って、煩いほど若さを羨んでいたと歳三は思う。
今では八郎もあの頃の自分の年に近くなって、少しは自分に近くなっただろうかと思ったが、そういえばそれだけ自分も年を取ったのだと、抱かれながら畳に擦られながらぼんやり感じた。
うつ伏せに尻を高く掲げられ、後ろから。
うっ、うっ、と頬にこぼれた藺草を貼りつけてはしたなく欲しがる自分を、何故まだ八郎が抱きたがるのか。請うほどに。
顔が見えず、不安になる。誰もいない窓辺に縋るように腕を伸ばした。
「としさん、ちょっとだけ、苦しいかも、がまんして…」
言うや否や八郎が一端動きを止めて、挿れたまま四つん這いの歳三を器用にごろりと倒してぐるりと引っ繰り返した。
「…ああ、ごめんよ。やっと顔が、見える」
ほっと眦を下げてゆるりと腰を使う。歳三の右膝を抱えて、空いた左手のひらで歳三の中心をしごく。
二人分の荒い息が虚空に響く。人払いしてあると言っても、人の多い屯所で抱かれている事実にたまらなくなる。猿ぐつわ代わりに、脱ぎ捨てた羽織りを手繰り、噛む。
「としさん、すき」
ああ。
八郎は変わっていない、歳三はそう思う。全部俺は憶えてる。俺だけが、変わった。年を取った。
寂寥に、いまさら泣くこともできないほどに。
それでも。
ふたりは同じ地に辿りつく。
北の大地。
寒さが二人を引き寄せて、ひとつにさせる。
白い大地は、人を素直にさせた。
やっと一緒になれたと思ったのに。わかっていたけれど、しかしこんな風に自分が先に倒れるとは予想だにしていなかった。
(最期まで、おいらを置いて、行くんだね)
八郎は固い寝台に転がされ、動かせない肩をもどかしく思う。
どおん、どおんと遠く地が割れるような音が続く。恐らくすっきりしないであろう空色すら、ここからは見えない。灯りのない天井が昼間の陽を薄く返す。
近頃は、毎夜眠りに落ちるきわまで、明日も恋人は来てくれるだろうかと、そればかりが心配で、不安で。
けれどその不安を砕くように、歳三は来て、八郎を慰めた。ただひたすらほがらかになった歳三を、八郎は不安がるようになった。
「もう離れねえし、邪魔させねェよ。覚悟しな」
ここで寝起きすると言う奉行並を、幾人もが説得に難儀したほど、歳三は八郎の側に居たいとはっきり言葉にする。
まだ動く右手を微かに動かす。察した歳三が八郎の皺枯れた手を優しく包み込んで、己の頬に添えさせる。かさつきにうっとりとまぶたを閉じた。
「あんたはほんとうに、としさんかい…?」
爺になってしまったような八郎の言に、歳三は吹き出す。
「なんだそりゃ! おめえの歳三さんだよ」
惜しげもなく八郎の口を吸う。わざと立てた音が愛しい。
「…だって、こんなに可愛いとしさん、おいらにゃ都合良過ぎるもの」
本気で疑う眼差しに、歳三は今度こそ声を上げて笑う。
「こんなにいい男ぶりのお化けがいてたまるか!」
少しだけだからと、歳三は狭い寝台にのぼって八郎に添い寝する。幼子を寝かしつけるようにとんとんと手のひらを使い八郎でゆったり拍子を取り、静かにささやく。
「な、だから早く元気になって、俺を抱けよ」
八郎はぎゅうと瞼を閉じた。そのはずみで眦から透明の水がこぼれる。
かなわぬことと知りながら、叶わぬなどとは思わない。
つまるところ、ふたりはいつもすれ違った。
それでも、幸せだった。
足りないことが、愛しかった。
「きりんのあくび」のあゆかわ様のお話、リクさせていただいて。しかも頂いてきちゃいました〜!!!
せつない、この一言に尽きます。
伊庭さんの気持ちも土方さんの侠気もかっこよく可愛くて、お二人がいとおしいよな素晴らしいお話です。
本当に書いてくださって、ありがとうございました***
すっごく、うれしかったです!!